オルタナ

ライブと映画

『アデル、ブルーは熱い色』※ネタバレあり

大好きな近代文学の先生がおすすめしていたので、絶対に観に行かなきゃ!と夏から思っていたのですが、電車で行ける範囲の映画館での上映が一切なく、仕方なくDVD化するのを待っていた作品です。これを文化の格差と呼ばずに何と呼ぼう(怒っている)。

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ものすごく安直な言葉を使ってあらすじを言うなら、ひとめぼれから始まり最終的には価値観の違いによって別れる若いレズビアンのカップルの物語と言えるんだろうけど、その平易なあらすじの間に幾筋にも渡って広げられた行間の豊かさに圧倒された。本筋よりもむしろそちらの描きこまれ方の細緻さのほうが青々と記憶に鮮やかなくらい。


始まりから終わりまで一貫して強烈に印象に残ったのは、アデルの食欲。アデルの食事のシーンが映画には相応しくないどころか、現実の世界でもこんな食べ方している人がいたら汚いなと思って見てしまうくらいに汚かった。割としつこく食事のシーンが出てくるんだけど、「食べることは生きること。作中に食事のシーンが頻繁に出てくるものは全てその人物が生と性に対して強い意志を持っているというメタファーだ。」と先生が仰っていたのを思い出して、なるほど合点がいった。この作品のアデルの食欲と骨の髄まですすり尽くすような食べ方は、エマへの激しい求愛行動そのものだ。そういうことを踏まえて最後にカフェでアデルがエマに迫るシーンを見ると、彼女の感じている刺すような寂しさと孤独が痛いくらいに際立つ。見ているほうまで呼吸をするのを躊躇われるような緊密なシーンで、アデルの泣き顔や引き際の悪さは彼女の食べ方同様美しくない。世間から持て囃されるいわゆるお誂え向けのきれいにラッピングされた愛や純情の類からは程遠いかもしれないけど、私はこのシーンを世界で最も真っ直ぐで"純粋"な場面だと思った。

細かいところでいうと、公園で実存主義についての話をするシーンとかパーティーの場面でパブストの「パンドラの箱」がさりげなく流れてたりとか、友人とクリムトエゴン・シーレの画風について討論するシーンとか、そういう何気ない演出にアクセントが効いていたのが良かったです。クリムトエゴン・シーレも好きな画家だからチラッとでも出てきたのがとても嬉しかった。「クリムトのあの華麗さがダメ」って言った友人に対してエマが「華麗だって?華麗ではない!」ってムキになって反論した場面が特にお気に入り。あくまで個人的な考えだけどクリムトを華やかと感じるか暗いと感じるかで、芸術を見る視点の違いがよく分かる事例だと思う。どちらが優れているとかどちらが劣っているかとかそういうのは関係なしに。

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レンタルする前から7分間のベッドシーンがごっそり抜かれていることは分かっていたけど、それを承知した上で観ても素晴らしい作品だった。でももしそこがカットされていなければ最後のカフェのシーンなんかは私がいま感じているよりももっと深くて青い熱を帯びて映ったんだろうな、と思うとやっぱり残念です。
最後になるけどエマ役のレア・セドゥ、アデル役のアデル・エグザルホプロスが両者ともに文字通り体当たりの熱演そして名演だった。この2人なくしてこの映像は成立しえなかっただろうな